青函連絡可動橋 昭和のIron・Steel
1.青函連絡可動橋改造の工事範囲
青森と函館の両可動橋の改造
2.青森側 事務所住所
青森駅構内 第一岸壁可動橋工事現場 松尾橋梁工事事務
3.青森宿舎
6月12日~7月上旬頃迄
青森市沖舘千刈388 及川 吉太郎方
8月上旬頃まで青函を行ったり来たりか
4.青森現場環境(原文ママ)
此方も毎日はっきりしない天気
うみっぺりにいって ものすごい風が寒く
容赦なく吹いている
暑い処の騒ぎではなく 時々炬燵へ入ることも有る
寒くて風邪をひいて弱った
相変わらず長袖を着てセーターをその上に
更にワイシャツ二枚を着て仕事をしてる
何時になったら夏らしい日が来るのか解らない
嘘でもなく全く3月の頃の陽気だ
とにかく油だらけになって弱った
手袋を送ってほしい
いつもいつも海を眺め津軽海峡から送って来る潮風が
海の香りを乗せてくる
7月に引き上げる 8月上旬かもしれない 以上
① フイルム・ホルダー
青森側写真店で現像。 画像は全て青森第一岸壁と判断
5.函館側 事務所住所
函館駅構内第二岸壁青函連絡可動橋工事現場
松尾橋梁工事事務所と推定
6.函館宿舎
その後 つがる屋旅館 函館市大町31番地
つがる屋旅館7月27日退去
宿舎移転理由不明
9月9日宿泊し 10月上旬まで滞在か
① 資料確認(原文ママ)
27日に又宿舎が移ります
いろいろな関係で又宿が移り全く私も厭になる
今度移居したらずっととなり もう大丈夫です 以上
7.まとめ
函館宿舎再転居に伴う郵送先変更発生
余程の事情が有ったんでしよう
6月12日~7月30日迄の資料で以下を確認
現場滞在期間は 準備工も含めて
最大 昭和28年6月~10月上旬頃か
撮影は「自動シャッター使用」を確認
① 函館港の船舶情報 写真所在不明 (原文ママ)
船は客船貨物船で全部13隻くらいあります
大拙 (雪?)丸といふ 函館切っての好い客船です
第12青函丸は貨物船です
その外 石狩丸、摩周丸と色々沢山あります 以上
1954年(昭和29年)9月26日については・
洞爺丸海難事故については 何も資料ありません
しかし もしかすると これかもしれません(既出)
② 追加資料
その他 当時道内諸事情(原文ママ)
昭和28年5月末札幌では 街で右肩を馬に噛まれて 内出血した
鉄道事情
上野発 6日9時35分 7日0時30分青森駅着
青函連絡船7日0時50分乗船 7日5時10分函館着
7日11時45分札幌着した
突き出ている煙突 八重桜が満開 東京の3月と思えば間違いない
東京でランニング1枚で過ごせるがここではスプリングコートを着ている
物価が高いのでうっかり何も買えない
仕事の都合が悪く 8月15日まで駄目
札幌から電鉄で45分くらいの定山渓温泉に一泊した
仕事は7月20日ごろ
僅かばかりの金で左右され おのが特権を発揮し
意のままにならぬ奴は気に食わん肚でバカ扱いされ (・・だそうです )
北海道札幌市白石七条の四丁目 清水建設KK作業所内 松尾橋梁
ご挨拶に替えて (青函終稿)
画像は 現場作業記録と作業班の記念写真でした
しかも 現像場所で判断すると 青森側の様です
先達に聞けば 風景で ご判断できるでしょう
現場使用図⇨成果品反映の情報が有ったでしょうか
成果品の検証で 判断できるでしよう
使用図は 青森⇨函館と使い廻した様です
図裏手書き工事名と図タイトルが齟齬しております
青森も凾館も基本的に 大差なしでしょうか
青図は経年劣化を差し引いてもそもそも不鮮明です
原図を二原に焼き 更に焼いたなら多少鮮明ですが
加筆してますので 元図を直接焼いたんでしょう
図面が命の現場で これは どう言う事でしようか
それが 昭和28年の現実なんでしょうか
さて 作業部隊の拠点は 青森と函館でした
函館第二岸壁可動橋改築其1・其2は、
昭和28年6月から およそ130㌧のようです。
青森第一可動橋改築架設鉄骨工事は
昭和29年5月から およそ130㌧のようです。
労務環境は 相当厳しかったようです
青焼図に 滴った血痕もそれを物語っております
本blogは 戦後復興に尽くされた先達が主題です
決して無機的な 構造物カタログではありません
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